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遺族となって [ファミリー葬 さくら]

こんにちは。

海洋散骨の企画運営の広島のアスターせと

葬祭トータルサポートセンターの
ファミリー葬さくらです。


1月26日、私の実母がなくなりました。

アヤ子葬儀20220128.jpg
祭壇は『ベルデ47』


私の父は既に38年前に他界しており、
当時は学生だった私たちきょうだい(兄・私・妹)は
父の葬儀や遺品の整理など
ほぼすべてのことを母に任せていました。

母の死を経験し、それがどんなにか大変なことだったか、
今ようやく知ることになりました。


今回遺族となって感じたことを綴ってみたいと思います。


公私混同になりますが、
参考になることがあるかもしれません。

お時間ある限り最後までお読みいただければ幸いです。



これまでの経緯

アヤ子1.jpg
母20歳ごろ

母は10年ほど前から入退院を繰り返し、
圧迫骨折で入院したごろから認知も出始めました。


[exclamation]ここがポイント

実は介護生活10年というのは、
日本の平均的な期間なんです。

本人や家族にとっては本当に長い期間。
そして終わりが見えない期間。
それが今の日本です。

===



まず最初に窮地に立たされたのは兄嫁さんでした。

自宅での介護。
だんだんと認知が進んでくる母。
初期の頃は車で出かけたのを忘れ、
バスで帰宅したり…うっかりもほどが過ぎる程度からで、
後になってから考えるとそれが認知の初期だったということになります。
そのころには運転もかなり危うくなってきたため
兄が免許証の返還を説得しました。

自宅は山の上なので車がないと大変不便で、
結果出不精になります。

それが認知症に拍車をかけたかもしれません。

そして糖尿があったため、朝晩のインスリンの注射も
兄嫁が担ってくれました。


[exclamation]ここがポイント

母を献身的に介護してくれた兄嫁は、
とうとう介護離職に追い込まれます。

私が他にできることがなかったのか、
介護を助けることができなかったのか。
離職の報告を受けたときは、
申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

===


最後の入院は大腿骨の骨折でした。
ほぼ寝たきりになったわけで、
もうこれ以上は自宅で介護は無理です。
(兄嫁は離職後も臨時採用で働いていました)

病院のケースワーカーさんの力を借りながら
入れる施設を探したところ、
緊急性が高いと判断され、
自宅に近い特別養護老人ホームに入れることになりました。
(これは本当にラッキーでした)


母は骨折と糖尿の他にも
心臓弁膜症を併発していたため、
実は4年前に医師から「3年以内に心臓に何らかの症状が出ます」と
言われていました。


しかし心臓の症状は出ないまま、
特養で安穏にそしてご機嫌で過ごしているのがなによりでした。

もちろんコロナによって面会の規制がかなり厳しかったので、
数えるほどしか面会できていません。
(今弊社でお葬式をされる方は、ほとんどこのような状況です)

私たちきょうだいは、
やがて弱っていきだんだんと死に向かっていくとばかり思っていましたが、
ある日突然、夕食時に誤嚥し、窒息による心肺停止。


[exclamation]ここがポイント

母はしっかりしていたころ、
『一切の延命処置は拒否します』と自分で記した紙を
保険証の中へ入れ、
関わっていただいたすべての医師もそれを確認していました。

===

ですので、本人の意思を尊重した結果、
臨終という流れになりました。




そして葬儀に

隆1.jpg
父27歳ごろ


時節柄、そして年齢(83歳)を考えると
必然的に家族葬になりますが、

母は元気なころは精力的に交友関係を広げていたため、
10年の闘病生活があったとは言え、
何人かの方はお参りに来たいと言ってくださる可能性がありました。

ですので、通夜の時間を挟んで前後の時間、
そして葬儀の始まる前の時間は
出入り自由にし、自由にお参りに来ていただくことにしました。


遠方の親戚の参列は断りました。
母のきょうだいは8人、そのうち4人は健在ですが、
皆高齢です。
(今から思えばyoutubeライブ配信をすればよかったと思いましたが、
 高齢なので操作がわからないと思い込んでいました。
 実際後からgoogleフォトに葬儀の様子の写真をアップして
 URLを母のきょうだいに送ってみたところ、
 いとも簡単に「見れたよ」と返信があり、
 高齢と言えども、ある程度のスマホの操作はできることにびっくり!)
オミクロン株が蔓延しているこのご時世、
高齢者の参列は控えていただき、
子どもである兄・私・妹とその家族、
そして数名の親戚と、
母の交友関係者(一部)のみの参列でした。


[exclamation]ここがポイント

遺影の写真は、闘病初期にカメラマンの妹が撮影してくれた写真がありました。
これは私がお願いして、
遺影になる写真を撮っておこうという提案に賛同してくれた写真でした。
でも私にとっても、その母はただの老いた姿で、母ではありませんでした。
そこで目についた古い写真、
真っ赤な服を来て、真っ赤な口紅を塗り、
化粧もばっちりのふくよかな姿。
私も孫たちも、これぞばあちゃん[exclamation×2]という写真をチョイス。

===



[exclamation]ここがポイント

さらに納棺師さんにもその写真に可能な限り近づけてもらえるようにお願い。
(無理なお願いとはわかっていますが)
その素晴らしい技術により、
10歳若返らせてくれました。

===



[exclamation]ここがポイント

久しぶりに顔を見る参列者の人たちも、
遺影を見て、そして故人を見て
「まさにこれが〇〇さん」と、
懐かしがりながらしっかりとお別れしていただけました。

===







葬儀後のこと

隆アヤ子1.jpg
父と母

東京から帰省している妹がいるうちにと、
葬儀の翌日には実家の片づけに取り掛かりました。

あの時代の人にはよくあることですが、
母は断捨離はせずに、
収納場所を増やして、どんどん物を増やしていくタイプ。

物置にはいくつも箪笥や棚がおかれ、
びっちりと荷物が詰まっています。


介護の時に兄嫁が壊れそうになり、

片づけでは妹が壊れそうになりました。笑


物置の中を、捨てては場所を空け、
捨てては場所を空け、
ずんずんと無言で前進していく姿は、
もはや何かに取りつかれてるように見えました。笑


そして次は私が壊れる番です。笑

私しか処分のわからない関係の資料が大量に出てきました。
本当に次から次へと。

それらをすべて自宅に持ち帰り、
孤独な選別作業を行いました。(いや継続中です[あせあせ(飛び散る汗)]


さらに最後は兄が壊れます。

物が捨てられない年代の人、
なぜか銀行口座もたくさんあるんです。

去年、私たちが育った呉の家を売却し
その確定申告も終わってないタイミング。

次から次へと出てくる通帳と
保険関係の資料。


これらは私たちも相続する分が含まれているので、
兄一人に銀行もろもろの手続きを任せるのは、
申し訳なさすぎます。
(兄はプラスして実家の相続もあります)



[exclamation]ここがポイント

そこで自力でやることはさっさと諦め、
即決でなな行政書士法人にお願いすることにしました。

行政書士、司法書士に支払うお金も、
3人で割ればたいしたことありません。
相続したお金から支払える金額でした。

===


[exclamation]ここがポイント

実は5年ほど前に、一度整理していました。
私がこの仕事を通して、母の最期は大変であると予想できたので、
まだ健在なうちに、と、母の持っている会社を廃業し、
通帳もすべて記帳し、出入りのある口座以外は
すべて残高ゼロにしていました。
それでも専門家に泣きつくほど、膨大な手間と時間がかかります。
あえて言うならば、
せめて通帳の記帳を済ませておくこと。
これにより誰が見ても、
出入りのある口座か、休眠口座かということがわかります。
調査対象が減るということです。

===




まとめ

上に『ポイント』として強調しながら書きましたが、
介護・葬儀・遺品整理と進めていく中で、
いかに自分たちが『壊れず』切り抜けていくか、
ご自分の場合に当てはめて考えてみていただければと思います。


それ以外にも重要なポイントに気づきました。

それは家族が仲良くしていること

我が家はすべて受け入れてくれる兄嫁のおかげで
本当にきょうだいが不仲になることなく過ごすことができていました。

ですので、葬儀に関することは全面的に私に任せてくれましたし、
兄は喪主として家長としての役目を果たし、
遺品の整理で廃棄するものや残すものについてもモメることはありませんでした。
そして遺産分割は法廷分割とは違う割合にしましたが、
それもモメることはありませんでした。
さらに妹や私の配偶者も異論を唱える者はいません。

孫たちもよく動いてくれました。

家族が仲良く居続けることは、
故人の願いでもあり、
遺品整理の上でも、
非常に重要なことであると気づきました。



最後に



私は幼い頃から両親とあまり折り合いが良くありませんでした。
そんな関係でしたが、若くして亡くなった父の時は、
それでも平気で太陽は上がり、人々は日常を送っていることに
強い怒りと憎しみを覚えたものです。(若かったですね)
天敵だと思っていた母も
晩年は「かわいいおばあちゃん」になり、
穏やかに日々過ごすことを願っていました。
今気づくことは、すべては私が両親に甘えていたということ。
いつまでたっても親は超えられない存在なんだと思います。


母が亡くなる4日前には甥っ子の第三子が誕生。
母にとっては3人目のひ孫です。

去る命と新しい命、
生命の循環をひしひしと感じました。


お母さん、

ありがとう。
そしてまた会う日まで。
行ってらっしゃい。

隆アヤ子2.jpg











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0800-200-1901


メールアドレス:info@asterseto.com






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株式会社オフィスさくら
葬祭部門:ファミリー葬さくら
   (ファミリー葬さくらホール運営)
散骨部門:アスターせと





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